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ネパール共産党 マオイスト

 1996年2月、ネパール西部の山岳地帯のゲリラが、農村の貧困を招いている「海外の帝国主義」に対して「人民の戦争」を開始した。2月のテロ発生以来、ゲリラ側は自作の武器や建設現場から盗んだ爆薬などを使い、警察官、村民など20人以上が殺害されている。ネパール政府は臨時の治安部隊を配備したが、ゲリラと治安部隊の戦闘に巻き込まれて、村民にも被害が出ている。・・・
〜中略〜
 マオイスト問題は、世界の他の紛争に見られるような宗教、民俗、外部の利権等との関係は希薄で、貧困に深く根ざした内部発生的問題である。現在の危機が開発のための長年の努力の結果であるとすれば、政府もドナーも、開発のあり方と援助のあり方について真剣に考える必要がある。(ネパール国別援助研究報告書:P.230より引用)

2001年7月、停戦に合意。同年11月23日武力闘争再開。同年11月26日国家非常事態宣言発令。

2003年1月29日、2回目の停戦に合意。2003年8月27日、2回目の停戦合意破棄を発表。

2004年11年25日、ネパール政府「話し合い」のリミットを2005年1月13日に設定。

2005年9月3日、マオイスト3ヶ月間の停戦を宣言する。絶妙なタイミング。王政府、政党はどう対応するか。

2005年11月22日、マオイストと7政党「12項目の同意」を発表。

2006年4月27日 3ヶ月の停戦を宣言。7月28日 停戦を3ヶ月延長。

【関連リンク】

■反政府組織概要【日本国・外務省情報】
Maoist insurgents The South Asia Terrorism Portal
The Worker
マオイストの歴史1(小倉清子 著)
マオイストの歴史2(小倉清子 著)
国王とマオイスト( アジア・プレスネットワーク)小倉清子 著
ヒマラヤのマオイストたちの純朴…(日刊ベリタ)
DISPATCHES:Report from the People's War in Nepal
マオイストの襲撃に遭遇した記録 (2002/3/20 Nepal news)
Li Onesto

マオイストとの遭遇

1.1998年9月、アンナプルナトレッキング中に火事があったばかりの民家の前を通った。少女の泣き顔と父親の諦めたような苦笑いが印象に残っている。その時は単なる火事かと思ったが近くの警察詰め所も火事で焼けてしまったとのこと。そんなにネパールの人が不用心とも思えない。放火されたのだろうと考えるのが普通である。誰が? マオイストだろう。1998年ごろからバンダ(強制ストライキ:バンダは閉じるというネパール語)が増えてきた。民主化の記念日(4月6日)に滞在していたが静かなストライキで終了した。地方では警察とデモ隊が衝突して犠牲者が出たという記事が翌日の新聞に出ていた。このころはネパール政府はマオイストをあまり気にしていた様子は窺えない。最初は上記のようにINGOをターゲットとしての破壊活動が中心であった。日本の援助隊の事務所等も襲われたりした。

2.2002年7月ロールワリントレッキングを行った。チャリコット、ドラカは名だたる活動地である。トレッキングの準備でも遭遇した場合の対処方法をいろいろ検討したり、マオイスト関連の情報をノートに書き留めた。過去の情報から強制寄付の要請があった場合10,000ルピーは必要、会った時は「ラル・サラム」「コムレート」と挨拶をするとかネパール国軍であったならば「JAY NEPAL」と言うとか冗談ともつかない知識を身につけて7月1日にトレッキングに出発。(前回は2001年6月1日出発であった)

トレッキング4日目の朝、前夜にマオイストが村に来たとの話をガイドが伝える。もう帰ったのかな?と思いながら出発。すぐに村人達の一群に呼び止められる。最初は何かよく分からなかったが5分間、時間をくれというので話を聞く。マオイストは2人で一人がリーダーで小柄で温厚そうであった。(一見すると学校の先生タイプ)もう一人はコマンダーで武器こそは手にしていないが切れたら怖そうかな。(そうでもないかな^^;)いろいろな話をしました。地下から表舞台に何故でないのか?選挙に出るべきである。とか「書けない話」も。何故話し合いを止めたのか?

マオイストと会う前は統率がとれていない組織だと思っていたが大間違い。プラチャンダ氏のコントロールがしっかり効いているように思われ、彼らのプラチャンダ氏に対する心酔度は強烈である。B・バタライ議長についてはダメだと言っていた。「ジャナーディシュ」の編集者クリシュナ・セン氏の話(警察に拷問で殺害された)もして体制批判に大いに盛り上がった。彼らからの質問は、彼らの政権が国を治めるようになった場合、「観光客としてネパールを訪問するか?」私はこう答えた。「歓迎してくれますか?」彼らは「ウェルカム」と応えた。なんだかんだと5分は30分以上になってしまった。お互いの健闘!?を祈って握手をして別れた。

トレッキング10日目、目的地の訪問が終わり帰路に就いていた。往きにも泊まったロッジに着くと先客がいるようでまた同じ部屋、2部屋あるが出入りする入り口はこちらの部屋だけであるので奥の部屋の泊まり客の通路としても使われる落ち着かない部屋。お客はカトマンズからの技術者グループで10名ぐらい居るようだ。ベッドは5つだけだけど。7時過ぎに1階のダイニングでお茶を飲んだりして夕食のダルバートの出来上がりを待つ。子供達から先にご飯を食べていく。夕食を食べ終わる。寝る準備をして2階へ上がる。隣の部屋ではミーティング中(最初は上司が部下に何かを教えているのかと思った)で小さな話し声が聞こえている。こちらはローソク(電気なし)を消して寝る準備、食後間もないのでベッドに腰を掛けて休んでいると、ガイドが「マオイストが居る」と小声で伝える。隣から聞こえてくる話の内容は「強制寄付」の話。技術者グループは2000ルピーの寄付で交渉していて不足分はカトマンズからボスが来るのでその時に持ってくると話していたらしい。

話の中で隣の部屋に外国人(私^^;)のトレッカーがいて多少はお金を持っているだろうから、そちらから寄付を貰うべきだと言っていた。その時のマオイスト側の回答は「彼らは我々のシンパであり彼らには要求しない」<意訳!>(4日目に出会ったリーダーから話が伝えられている)と言ったようである。午後9時半頃5名のマオイスト・コマンダーが立ち去った。暗闇の中、まんじりともしない時間が過ぎていた。

 2004年2月思うこと。相変わらずマオイストと軍・警察の殺戮は続いている。UMLの議員も殺害された。観光客は多少増える傾向にある(2004年1月は前年同月比40%アップ)が国が安定しなければ大きく増加はしないと思われる。トレッカーは「マオイストは外国人観光客には危害を加えない」という神話を信じて「遭遇するのを楽しみにしている」というBBCの記事まで出た。これが継続すれば問題ないがマオイストの力が落ち込めば、いつ観光客が標的となり襲撃されるか分からない危険がある。一人でも怪我人が出れば観光に大きな影響が出る。

 2004年カトマンズの「マオイスト犠牲者の会」が集会でマオイスト幹部2名に似せた人形を焼いた。翌日に犠牲者の会の代表が殺害された。敵対するところには容赦ない攻撃を加える。テロ集団と言われても仕方がないところだ。しかし何故中枢を攻撃しないのか?裏でどのような取引、駆け引きをしているか分からないところが不気味である。所詮、「人民の戦争」と言ったところで「人民は不在」若者を誘拐しオルグして戦闘員として前線に出す。50年前ならばそれも有効であろうが「遅れてきたマオイスト」では話にならない。戦略を早く変更して表に出ないと地下で窒息死する道以外には無くなってしまうであろう。

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