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 1814年、国土拡張政策を続けていたネパールとイギリスはブトワルで戦火を交えたのを端緒に、ネパール・イギリス戦争(ゴルカ戦争)が勃発。イギリス軍3万、60門の大砲、迎え撃つネパール軍は1万2千の兵力であった。平地戦では優勢であったイギリス軍も山間部ではネパール軍に苦戦をし大量の武器と兵力の補充で劣勢を挽回し、ネパール軍をカトマンズへ敗退させた。

 戦争の長期化と清軍の参戦を恐れたイギリス軍は、1816年にインドのスガウリでネパールと講和条約を締結し、ゴルカ戦争は終結した。スガウリ条約はシッキム、ダージリンの放棄、タライ平原の一部の割譲(代償としてイギリスは年20万ルピーをネパールに支払う)カトマンズにイギリス総督代理を置くことを認めるという内容であった。

 戦争後、東インド会社は少数のネパール人兵士を会社が保有する軍隊に雇い入れることになった。彼らはその王朝の名から、グルカ部隊と名付けられた。正式にはゴルカであるが、英語読みではグルカであった。

 1857年5月、インドのメーラトでイギリス軍に配属されていたインド軍兵士(セポイ)が反乱を企てる事件が起こる。この反乱は東インド会社に不満を抱いていた一般民衆を巻き込み全国規模の民族闘争にまで発展した。これをセポイの乱という。

 このときネパール軍はイギリスに加担する。当時のネパール首相ジャン・バハズールは以下のように決定を下した。

 「ネパールは信義を重んずる国である。それに我々はイギリスの実力を十分に承知している。ここでイギリスに支援を断れば、後に禍根を残すであろう。逆にイギリスが我々の協力で反乱を鎮圧し、インドにおける覇権を取り戻せば、今度はネパールが絶対に有利になる」

 バハズールは1万4千の兵をインドに差し向け、イギリスへの援軍を申し出た。最大の激戦地デリーでは3ヶ月の攻防で490人の第2グルカ連隊は、実に327人の犠牲者を出したといわれる。セポイの乱後、イギリスはグルカ兵の献身的な戦いぶりに感謝し、ネパールにタライ地方の領有権を認めた。

 「イギリスに恩を売って子孫の安泰を図る」というバハズール首相の策が効を奏した。

 以後グルカ部隊はイギリス軍のなかで確固たる地位を築いていく。グルカたちは、土民兵と言う最下級のランクから、イギリス正規軍を意味するライフルマンという地位に格上げされた。これは非アングロサクソンの外人部隊の扱いでは、イギリス軍史上初の画期的な出来事であった。

 イギリスにとってセポイの乱はひとつの教訓となった。それまで植民地軍の主力であったインド兵が動乱の主役となったことが、ネパールからの兵士調達を切実なものにした。当時イギリス政府が設定した対ネパール政策の重点は、

 1.グルカ兵の調達
 2.両国間の貿易の自由化
 3.総督代理の行動の制限緩和
 4.ヨーロッパ人の入国制限の緩和

などであったが、そのなかでグルカ兵の調達が圧倒的に重要な政治課題であった。北方より迫りくる清朝中国、帝政ロシアの脅威に対する備えと、植民地インドの安定を最優先とし、そのための強力で忠実な軍隊が必要であった。これがイギリスがネパールからグルカ兵を調達した理由であった。イギリスの巧みな植民地戦略である。

 しかし、ネパールもイギリスに負けず劣らず、巧妙な国であった。ネパールは後の両世界大戦を通じ、30万人以上にも及ぶグルカ兵をイギリス軍に供出したが、こうしたネパールの積極的な貢献策はやがて実を結ぶ。ネパールがインドと異なり、完全な独立国家であることを内外に知らしめ、国際社会に参加する強力な後ろ盾としてイギリスを利用したのである。ネパールは一度も列強に支配されることなく、その後も独立を守り貫いた。グルカ兵の供出は、二つの大国に挟まれた小国ネパールの生き残りを賭けた秘策であった。

 したたかさ、これは彼らにも十分あった。

参考本:
     もっと知りたいネパール(弘文堂)
     ピース・ブローカー(徳間書店)

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