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河口慧海 師の生い立ち

 河口慧海(幼名:定次郎)1866年(慶応2年)堺に生まれる。「釈迦一代記」という本を読み彼の一生の運命を決定することになる。19歳の時、徴兵令改正に不当を感じ、天皇へ直訴をしようと上京。失敗に終わったが家には戻らず、長柄の正徳寺にて参禅する。20歳、正徳寺を抜け出し、摂津箕面の勝尾寺の山中で一週間座禅。「充分に学問をした後に考えるようにしなければならない」と悟る。堺の晩晴塾で土屋鳳洲から漢学を学び、宣教師コルベー女史からは英語を学び、聖書も勉強した。

 同志社に入学するが学費が続かず数ヶ月で退学。堺に戻り小学校の教員を1年余りする。23歳で上京し哲学館(現、東洋大学)入学。25歳、1890年(明治23年)五百羅漢寺住職より得度を受け、慧海仁広(えかいじんこう)と名付けられた。住職の隠退で同寺の住職となる。26歳哲学館終了、住職を辞し僧籍を返還。宇治の黄檗山で一切蔵経を読み始める。一切蔵経を読んでいるうちにチベット行の決心をし、6年後の1897年(明治30年)6月、32歳の慧海は神戸を出帆する。チベット入まで三年の歳月が必要とされた。(参考資料:チベット旅行記 白水社)

 ここから先は『チベット旅行記』を読みましょう。ラサを目指す人々の目的は?map「明治の探検家たちのちょっとアレな話」
慧海師はどこの峠を越えてチベットへ入ったか?いろいろ本も書かれていますがこのようなサイトもあります。リンク リンク

 2005年3月5日の報道によれば慧海師が越えた峠は「クン・ラ(峠)5411m」であることが昨年秋に見つかった日記の調査から判明した。日記によればヤクに荷物を運ばせていたらしく、現地の同行者もいた可能性があるようだ。

河口慧海 記念館(マルファ)とブランデー工場(トゥクチェ)
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マルファ村の手前側に記念館はあります。
個人の家なのかお寺なのか不明、一家族が住んで管理しているようです、展示品があるのか分かりません、多分慧海師がチベット入りの最後の準備をした家だと思われます。ラルジュンに縁の地があります。以前に比べると充実してきたようです。
photo2

記念館の外壁。
ネパール語と英語で河口慧海師の紹介が書かれています。

photo3
トゥクチェのアップルブランデー工場、看板にはTukuche distillとある。
工場見学もできますが人が居ない場合もあります。 このトゥクチェ蒸留酒製造所を
営んでいるのがカルパナ・セルチャン氏一族です。
河口慧海師の滞在した部屋もこの一角にあるようです。

左にあるのはマニ車の壁。

photo4
トゥクチェの町並み、石畳に趣があり一味違うネパールが楽しめる。(マルファも同様に美しい)広場はチベットとインドの交易の名残で塩と穀物の集積場所跡。以前、タカリー族が仲介業で繁栄した。

ジョムソン街道の自動車道路化でどんな変化が起こるか?
素通りする町か宿泊する町か。将又、チベットまで自動車道路が通ればまた様相は一変する。ポカラ〜トゥクチェ(1泊目)〜ローマンタン(2泊目)〜チベットカイラス方面へ移動。

河口慧海 師 レリーフ(ボーダナート)
カトマンズのボーダナートにある慧海師のレリーフ。
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